湯沢 慎太郎 様  

 昨年9月4日の広瀬様のお便りに始まり、大兄の返信、そしてBernard Citroen氏(師?)の文章も拝見しました。核兵器使用の是非、いや戦争それ自体の可否については、果てしない議論が可能でしょう。今日、日本では、有事法制という名の一種の「国家総動員法」(若い方々には全くなじみのない名称でしょうが、この法によって1930〜40年代に日本のみならず朝鮮半島、台湾の民衆がどれほど苦難を味わったことでしょう)が国会で承認されようとしているのに、これから長い人生を送ろうとしている若年層がほとんど無関心でワールド・サッカーなどに気を奪われています。  

  私が、一連のお便りを拝見しながら、念頭に浮かんできたことは、50年ほど昔、篠原正瑛著『僕らはごめんだ』という本を読んだときのことです。篠原氏は昨年11月他界した哲学者で、当時ドイツの学生との往復書簡を邦訳して公刊したのがこの本でした。50年という歳月が経ってもはっきりと念頭に残っているドイツの学生の文章があります。「もし、日本ではなくドイツが最後まで残って、ドイツよりアメリカが最初に原爆の製造に成功していたとしても、アメリカはドイツに原爆を落とさなかったであろう」という意味の文章が、ぼくの頭にまるで棍棒で殴られたかのような衝撃を与えました。この話は、ことあるごとに若い学生たちに話しますが、かつてヴェトナムにナパーム弾を投下し、森林を枯葉作戦と称して有害の薬剤を散布し、今日アフガンに民衆もアルカイダも区別なく爆弾を投下し、パレスチナに対するイスラエルの侵略を拱手傍観していたアメリカはその後一向に成長していないと痛感します。彼らは、アングロサクソンを中心とする白人以外は、別の存在という観念が理屈を超えて血肉となっているようです。

 B.・Citroen氏の、愛の教説には異論の余地はないと思いますが、それは暴力に対して暴力をもって応えることの是非を議論する場合に生きてくる教えでありましょう。愛の教説を徹底するなら、ガンジーの無抵抗主義にまでいく覚悟が必要です。しかし、その場合でも、現実を的確に把握することまで否定することはできないでしょう。つまり、核兵器を含めて武器の製造・使用を否定することと、核兵器・化学兵器等がどのように使用され、どのような対象に対して使用されてきたかについて考察することとは別問題です。後者をも「愛の教説」の名の下に否定するなら、戦争・暴力に関するあらゆる問題の検討を退けることになりましょう。  

 かつて、「ソ連の原爆は正義で、米英のそれは悪だ」という愚かしい議論が真剣に展開されたことがありましたが、それは数人を殺傷する絶望的な自爆テロと、数百人の命を奪う戦車やミサイルによる侵略的報復とを同列に論じようとする昨今のメディアの報道も、現実を的確に捉えようとしていないと言えましょう。戦争について考察する際、大切なことは、常に民衆が犠牲になるのであって、いずれの側の支配者もほとんどの場合生き残っています。近くはイラクのフセイン、わが国東条英機、裕仁天皇etc、彼らは安全な場所を確保しているからです。

 愛の教えに従って無抵抗主義に徹する場合にも、戦争という暴力がどのようなエゴイズムの下に作用しているか、いかなる種類の武器であれそれを使用することが、何に役立っているかという問題について深く考えることが大切です。そうすることによって、問題の所在が明らかになるでありましょうし、デマゴギーに惑わされなくなります。そうした思慮深さがあって初めてイエスの「愛の教え」の意味が生きてくるといえましょう。つまり最も弱き存在への配慮が可能となるからです。それこそがイエスの教えだったはずです。あとは拝眉の折に回すとして、今日はこの辺で止めておきましょう。  

西川 宏人

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