(注記 : この手紙は、2002年3月3日、パリ・ミッションで行われた黙想会の際に、
「信仰は一つの知(savoir)であり、知である以上人に言葉で言えるものでなければならい。
 しかし、たとえばカラチのライ病センターでライ病の宣告を受けて泣きじゃくっている若い学生を前に、
 『私は既に世に勝っている(ヨハネ16章33節)』といえるのだろうか。
 キリストはよきサマリア人のたとえのなかで、だれがその人の隣人であったのかと尋ねている。
 けれども、 絶望している人の隣人となる、その人の身になる時、このヨハネ福音書の言葉は、
本当に理解し難いのではないか。」
という発言があり、これに関して様々な反論、活発な議論が行われたことへの感想として書かれたものです。)

Le 7 mars 2002

湯沢慎太郎様。

先日の黙想会での慎太郎さんの発言、いろいろ考えさせられました。

ご指摘の個所に限らず、ヨハネ福音書は難解で深く、私にとっても興味は尽きません。けれども、病に苦しむ学生を前に「キリストがすでに世に勝っている」とは言えない、というコメントと、信仰は知である、という慎太郎さんの断定とは、気になりました。確かに、信仰には知の部分が不可欠である、とは言えると思います。盲目的な信心と、真の信仰を分けるものは知でしょう。けれどもfoi savoir を同一視することは、あまりの飛躍であり、危険です。少なくとも、foiと、真実を抽象化しかねない、savoir opérationnelをはっきり区別しなかったら、大きな誤解を生むものではないですか? foi、或いはfoi chrétienneは、人間の手で創り出すことのできないle sens受けとるしかないle sensが、既に与えられている、ということを認めることから始まると思います。この、私達の存在の「根」とも言えるle sensを把握し、そこに自らを委ねることだと思います。そして、l’invisibleの中に真のréalitéを認めることではないでしょうか。Ratzinger こんな言葉があります。 « La foi est la forme irréductible au savoir et sans commune mesure avec lui » 信仰を伝える、と言うことは、相手に知を教えこむことでも、説得することでも、ましてや啓蒙することでもないはずです。

他者の苦しみについてですが、そのことを語る時、「信仰」だけでは太刀打ちできないでしょう。パウロも言うように、山を動かすほどの完全な信仰(すなわち慎太郎さんの言葉を借りれば「知」?)を持っていても、愛がないならそれは無です。愛の前には、信仰は、知は、沈黙せざるを得ません。絶望し切った人の前では、知なんて何の役にも立たない。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」この言葉の中で 知性をとらえなかったら、そして、生身の人間である隣人を目の前に、心と思いと力とに、知性と同じ重みを与えなかったら、知は、無どころか有害だと私は思う。悲しむ人を前にしたら、そしてその悲しみを 本当に受けとめ 分かち合おうとしたら、私は言葉を失うだろうと思います。無力な自分を思い知ると思う。心の中で叫ぶように祈りながら、共に泣き、手を握り、抱きしめるしかできないでしょう。いえ、実際にそうでした。そういう無器用な形で、「希望のない病であっても、あなたがいることには意味がある。ここにいる私は、あなたを必要としている。」ということを伝えることしかできないでしょう。医者が匙を投げた、難民の瀕死の幼な子が、ボランティアの青年がつきっきりで抱きしめ、歌いかけ、「愛している」と英語でささやきかけているうち、信じ難いような回復を見せた、というエピソードは、象徴的だと思います。
 言葉が伝わらないことにおいては、赤ん坊も、異国の人も、信仰を同じくしない人も、変わりはないでしょう。無気力な眼をし、配給の食事も受けつけなかった子が、生きようとし始めたのは、目の前のただ一人の人が、自分を愛し、必要としているということを、その子が全身で受けとめたからではないでしょうか。

 以上、思いつくままに書いてしまいました。黙想会で慎太郎さんに言った、「知に血が通っていなかったら ダメだと思う。」という言葉を、ちゃんと補いたかったので。

 共に神に向かいたい、大切な友人として、そして気がねなく まさに「信仰」を語り合える仲間として、好き勝手なことを言わせてもらいました。

              友情をこめて。

小川恵子

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