Le 7 mars 2002 湯沢慎太郎様。 先日の黙想会での慎太郎さんの発言、いろいろ考えさせられました。 ご指摘の個所に限らず、ヨハネ福音書は難解で深く、私にとっても興味は尽きません。けれども、病に苦しむ学生を前に「キリストがすでに世に勝っている」とは言えない、というコメントと、信仰は知である、という慎太郎さんの断定とは、気になりました。確かに、信仰には知の部分が不可欠である、とは言えると思います。盲目的な信心と、真の信仰を分けるものは知でしょう。けれどもfoi とsavoir を同一視することは、あまりの飛躍であり、危険です。少なくとも、foiと、真実を抽象化しかねない、savoir opérationnelをはっきり区別しなかったら、大きな誤解を生むものではないですか? foiは、或いはfoi chrétienneは、人間の手で創り出すことのできないle sens、受けとるしかないle sensが、既に与えられている、ということを認めることから始まると思います。この、私達の存在の「根」とも言えるle sensを把握し、そこに自らを委ねることだと思います。そして、l’invisibleの中に真のréalitéを認めることではないでしょうか。Ratzingerに こんな言葉があります。 « La foi est la forme irréductible au savoir et sans commune mesure avec lui » 信仰を伝える、と言うことは、相手に知を教えこむことでも、説得することでも、ましてや啓蒙することでもないはずです。 他者の苦しみについてですが、そのことを語る時、「信仰」だけでは太刀打ちできないでしょう。パウロも言うように、山を動かすほどの完全な信仰(すなわち慎太郎さんの言葉を借りれば「知」?)を持っていても、愛がないならそれは無です。愛の前には、信仰は、知は、沈黙せざるを得ません。絶望し切った人の前では、知なんて何の役にも立たない。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」この言葉の中で
知性をとらえなかったら、そして、生身の人間である隣人を目の前に、心と思いと力とに、知性と同じ重みを与えなかったら、知は、無どころか有害だと私は思う。悲しむ人を前にしたら、そしてその悲しみを
本当に受けとめ 分かち合おうとしたら、私は言葉を失うだろうと思います。無力な自分を思い知ると思う。心の中で叫ぶように祈りながら、共に泣き、手を握り、抱きしめるしかできないでしょう。いえ、実際にそうでした。そういう無器用な形で、「希望のない病であっても、あなたがいることには意味がある。ここにいる私は、あなたを必要としている。」ということを伝えることしかできないでしょう。医者が匙を投げた、難民の瀕死の幼な子が、ボランティアの青年がつきっきりで抱きしめ、歌いかけ、「愛している」と英語でささやきかけているうち、信じ難いような回復を見せた、というエピソードは、象徴的だと思います。 以上、思いつくままに書いてしまいました。黙想会で慎太郎さんに言った、「知に血が通っていなかったら ダメだと思う。」という言葉を、ちゃんと補いたかったので。 共に神に向かいたい、大切な友人として、そして気がねなく まさに「信仰」を語り合える仲間として、好き勝手なことを言わせてもらいました。
小川恵子
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