復活節第3主日

ルカによる福音 24・13〜35
2005年4月14日


今日の福音はエマオに行く2人の弟子たちについて紹介しています。
2人の弟子たちの話にイエス様がそっと入ってこられます。ルカ福音書の著者は、この「エマオ事件」を四通りで説明しています。
まず第一番目は、イエス様がエマオに向かう弟子たちの間で旅人として近付いて来られたという事実です。悲しみと絶望のうちにある弟子たちの中に、イエス様ご自身が先に近付いて来られたということは、実にありがたく幸せな場面です。
第二番目は、エマオの近付いた弟子たちのもてなし、すなわち招待がとても美しい発想であったということです。もう日は暮れてお腹を空かせているお客様を家に招待して休んで行くようにと勧めた。この弟子たちの美しい歓待が結局復活されたイエス様だと気付く確実なきっかけとなったのです。これは私たちの信仰生活にもっとも大切な意味を投げ掛けています。疲れ窶れた隣人を温かく迎え入れ歓待するということは、それが誰であろうとも、その行為は正にイエス・キリストを歓待する最も美しい行為となるのです。すなわちそれは具体的であり実践的な愛と言えます。
三番目は、イエス様が弟子たちに聖書の話をされる時の感動を伝えています。
「道で話しておられる時、また聖書を説明してくださった時、私たちの心は燃えていたではないか」という言葉がそのことをはっきりと伝えてくれています。つまり聖書を読んで勉強しなければ私たちの信仰生活は、ただ形式や義務に過ぎないということです。何を信じるのか、なぜ信じるのか、いかに暮らしていくことが本当の信仰生活なのかそれが分からなくなるということです。
最後の四番目、今日のハイライトはパンを裂いて渡す晩餐の時間です。「パンを裂いてお渡しなった。すると、二人の目が開けイエスだと分かった」という事実です。パンを裂くということは割ることを意味しますが、これはイエス様お一人だけが御自分の体を割り続けることで終わってしまってはならないのです。私たちも私たちが持っているパンを割らなければなりません。私たちが持っているパンは食べるものばかりではありません。私たちのお金や物だけでもありません。私たちの時間と空間と能力と知識、すべてを割って分け与えなければ共同体が成り立ちませんし、共同体が成り立たなければ私たち皆が平和に暮らすことができないのです。

絶望のうちにある人々の中にイエス様は共におられます。 すべてが終わったと思っている人々の中にイエス様は共におられます。今週一週間、私と共におられるイエス様に気付くことができるように、お恵みを願いましょう。

アーメン

back home next