復活節第2主日 (神のいつくしみの主日)

ヨハネによる福音 20・19〜31
2005年4月 3日


「赦し」

今日は、イエス様はこのように言われます。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る。」
ある町にライバル関係にあった二人の商人がいました。
二人の店は道を挟んで向かい合っていました。彼らは朝目を覚ましてから寝床に入るまで、どうすれば相手を潰すことができるかということばかり考えていました。そんな二人を見かねた神様が、ある日、天使を一方の商人のところにお遣わしになりました。二人を仲直りさせようと、天使はこのように提案しました。「神様があなた方に特別な贈り物を下さいます。あなたが財宝を望めば財宝を、長生きを望めば長生きを、子供を望めば子供を下さるでしょう。ただし条件があります。あなたが何を望んだとしても、あなたのライバルは、その二倍を得ることになります。あなたが金貨十枚を望めば、彼は二十枚を得ることになるでしょう。」天使のことばを聞いた商人は、しばらく考えると、彼は決心したように言いました。
「じゃ、私の片方の目を見えないようにしてください。」
このように赦すということは、簡単なことではありません。
しかし、赦しは主の命令であり、私たちが実行しなければならない教えです。
イエス様がどのようにして私たちに全てを赦しなさいと言われたかというと、それはイエス様ご自身が私たちを全て赦されたからです。

スペインのある修道院の話です。
この修道院のお御堂の告解室の上には、右上が垂れ下がったイエス様の十字架がつけられています。ずいぶん前に、この告解室に一人の信者が来て、とても重い罪を告白しました。この時、神父様は、「他の罪は全て赦すことができても、その罪だけは赦せない。」と言いました。ところが、その時、告解室の上につけられていた十字架からイエス様の右腕が伸びてきて、十字を斬りました。それは、その信者の罪を全て赦すという意味でした。そして、その時から、この十字架のイエス様の右腕は、だらんと垂れ下がっているのだそうです。
神様は、私たちの罪を海の深いところに投げ捨てられて、堤防に「釣り禁止」という看板を立てられました。神様が赦してくださったり忘れられたものを、わざわざ私たちが釣り上げて引っ張り出してくる権限は、私たちには無いのです。霊性学者たちは、憎しみの気持ちを持つことは、悪魔に自分の気持ちを与えてしまうことと同じだと言います。一度だれかを憎しみ恨み始めると、その次からは悪魔が彼を動かし始めるということなのです。悪魔の運動場で遊ばないようにするには、また、他の人に迷惑な存在にならないようにするには、憎しみという悪循環から抜け出す方法しかありません。

ところが赦しは簡単なことではありません。
赦すためには、まず決心が必要であり、その次に、神様の助けが必要です。
私たちの能力では完全には赦すことができませんから、私たちは神様の助けを求めなければなりません。赦しの日々を暮らすことで、私たちは始めて復活の暮らしを営む事ができるのです。
平和の祈りを唱えられた聖フランシスコのように、赦しの道具になって、私たちも毎日を暮らさねばなりません。主よ、私を平和の道具にしてください。憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに和解を分裂には一致を、疑いには信仰を、謝りには真理を。

アーメン

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