パリ日本人カトリック・センターの変遷
飯野栄治郎


ご存知の方も多いと思うが、センターは73年の設立以来いろいろ変わって来ている。
先ずセンターがおかれていた場所は、飯山先生のお話(「ともに」1月号)の中にもあった通り、設立当時 ≪ Place
de la Sorbonne ≫であり、約4年後の77年頃 次の場所、 ≪ Bd Montparnasse(Notre-Dame des Champs教会信徒館) ≫に移転、そこに約16年お世話になった。93年、三番目のところ ≪Bd Edgard-Quinet ≫に引越し、そして今は皆様ご存知の今の場所 、 ≪ Babylone ≫に98年に落ち着き現在に至っている。
またデュノワイエ神父さまのお住まいも72年当初は ≪ Nanterre ≫の教会であった。これは当時神父さまは地域の教会とセンターのお仕事を兼任されていたためである。その後86年頃≪ Suresnes ≫のお母さまの家に移られ、同時に兼務教会も ≪ Suresnes ≫になった。従いその当時は黙想会も ≪ Nanterre ≫や, ≪ Suresnes ≫で何度か開催されたと記憶する。また、“ご降誕祭”も毎年のように ≪ Suresnes ≫教会にて合同で日仏ごミサに与った覚えがある。音楽会や新年会では神父さまのお母さんの元気な姿をしばしばお見かけしたし、また神父さまのお姉さんご夫妻のご厚意で、毎年“演奏会”のパンフレット・プログラム等の印刷を無料で提供頂いた。文字通り神父さまご家族全員でセンターを支えて下さっていた。感謝、感謝。そしてデュノワイエ神父さまがMEPにお住まいになったのは比較的最近の98年ころと思われる。
センターのその頃の活動のひとつに“ルルドの巡礼”があり、ほぼ毎年巡礼が出された。私も二回、デュノワイエ神父さまにお連れ頂きいた。ルルドの常宿Hotel ≪ Bourgogne et Bretagne ≫が懐かしく思い出される。
“ローマ・アッシジ巡礼”は過去5回(75、81、86、92と94年)あり、86年デュノワイエ神父さま引率に参加し、夜行列車に揺られ、当時列車内での頻発していた”就寝中の盗難“に驚かされながら、でも楽しかった巡礼であった。
またこれまで日本から留学にいらして、デュノワイエ神父さま(センター)のお手伝い頂いた神父さま方をご紹介したいと思う。
設立当初、73年、平松豊実神父さま(聖パウロ会)が初めての日本よりの神父さまだったと思う。その滞在はほんの短期間だった。次は坪光正み神父さま(マリア会)で74〜76年ころと思う。Antonyのマリア会本部での黙想会を覚えている。三番目は明石健次神父さま(大阪教区)76〜78年ころだったと記憶する。料理が得意の神父さまで、寮で“禁止”の部屋に卓上ガスコンロを持ち込みよく料理されておられた。四番目は畑田神父さま(鹿児島教区)80〜82年ころと思う。その後続く神父さま方と同様、日本語のミサを上げていただいた。それから、桜井尚明神父さま(福岡教区)が88〜90年ころ、何年か後にパリ再来された時、留学時代にはガリガリに痩せていたのに、りっぱな体格に変身されたのには驚かされた。そして、牧山強美神父さま(スルピス会)89〜93年ころと記憶する。それから白浜満神父さま(スルピス会)93〜95年、手先が大変器用な神父さまで、特に大工仕事が得意、“キリストの職業、大工仕事?が大好き”とおっしゃては、センターでも朗読台とか、ミサ用聖歌集を入れるキャスター付き箱等器用製作し現在もミサの際に利用している。北村善朗神父さま(京都教区95〜98年)にもお手伝い頂いた。最後から二番目は嘉松宏樹神父さま(長崎教区95〜02年)、2001年、神父さまに計画・準備・同行頂いた“聖地巡礼”は思い出が多い。最後原田雅樹神父(ドミニコ会00〜05)にもお世話になった。フルートの上手な神父さまであった。
最後にデュノワイエ神父さまが日本政府より叙勲されたのをご存知の方は少ないと思う。88年に「海外在住の邦人をお世話した」功績が評価され、“勲四等”であった。大使公邸にて授与式が行われ、お陰さまで私個人としても生まれて初めて“在仏日本大使公邸”を訪問できた。
以上、私の記憶・個人の印象で原稿を作成したので、年代等に時として誤りがあったり、記憶欠落で記入漏れがあったかも知れない。その点はご容赦頂きたい。いずれにせよ、またどなたかに不足部分を補って頂けるものと期待する。ただ<センターの歴史を振り返る>で上で、すこしでもご参考になれば幸いである。

「ともに」のトップページにもどる