君が魂(たま) 父に召されて やすらけく
永遠(とわ)にわれらを導き給え

 

4月2日夜 バチカンは教皇ヨハネ・パウロ二世の逝去を発表した。享年84才であった。この報に接し、数日前からサン・ピエトロ広場で祈りを捧げていた巡礼者たちや世界中のカトリック信徒は深い悲しみに沈んだ。続いて全世界から、宗俗を問わず、故教皇の死を悼む人たちが最後の別れを告げるために、ひきも切らず“永遠の都”に集まってきた。特に注目を集めたのは、その中に宗教を異にする人たちも多かったことである。フランスでは片旗を掲げて哀悼の意を表し、パリのノートルダム寺院で行われた翌日3日(日曜)のミサには元首や閣僚も列席して荘厳な追悼ミサが行われた。8日の埋葬に至るまでマスコミは専らこれらのニュースに明け暮れ、多くの関係出版物も出たので、詳細はそれに譲り、フランスではほとんど取り上げられなかった故教皇と私たち日本人との関係につれて触れてみたい。

1978年10月以来26年余に亙る長い教皇職在任期間中、ヨハネ・パウロ二世は100カ国以上を訪問されたが、日本に来られたのは、教皇任命後僅か2年4ヶ月の1981年2月(23日〜26日)で、アジアではわが国が最初の訪問国という栄誉を担っている。恐らく早くから教皇の念頭には、1549年に来日したキリスト教日本開教の祖、聖フランシスコ・ザビエルのことがあったのだろう。「日本の使徒」と言われたこの聖人は2年余の短い滞在中休む間もなく各地を訪れて福音を伝えた。この2人の間には時代を超えて共通する点があるようだ。例えば、日本語による説教である。ザビエルは、彼がインドで作成した“カテキスモ”の拙い日本語訳を道の辻で読み上げる勇気を持っていた。教皇はこの日のために、バチカンで日本語の個人教授を受けられ、日本では日本語で話された。原爆を蒙った2つの都市を訪問され、2月25日広島では「平和のアピール」を、翌26日長崎ではメッセージの中でザビエルの業績をたたえられた。東京では在日ポーランド人女性たちが民族衣装でお迎えし、歌や踊りを披露したが、教皇は気軽に参加されて、あのバリトンの美声で合わせられたという。そんな型破りの人なつこい面もあって、日本人に親近感を与えられた。

余談になるがそれから間もなく5月13日、サンピエトロ広場で凶弾を受け重傷を負われた。この時の傷が晩年の病気の遠因になったのであろう。にも拘らず服役中の犯人を2年後に訪れゆるしを与えられた。

ヨハネ・パウロ二世の信条の1つに「諸宗教との話し合い」がある。その最初の試みが1986年10月、イタリアのアッシジで催された「世界平和を祈る集い」である。招かれた諸宗教の指導者の中には日本の仏教代表者たちもいた。この集いは2002年にも開かれ、わが国から仏教代表者が参加している。嘗てキリスト教者と仏教者の間で宗論が行われ、「どちりな・きりしたん」(カテキズムの要約)のキリスト教護教論は常に仏教排斥で始まったキリシタン時代と比較すると隔世の感がある。しかしながら往時のキ・仏宗論は、互いに教理の本質を理解できないままに空回りしていたようである。それは又キリスト教対他の宗教にも当てはまる。だからこそ教皇は相互の理解の必要性を痛感し、「話し合い」を提案、実施されたのだろう。

第1回アッシジの集いで教皇の目は再び日本に向けられたかの如く、翌年1987年10月18日にトマス西と15殉教者が列聖された。更にヨハネ・パウロ二世は2人の日本人大司教を枢機卿に任命された。白柳誠一枢機卿(1994年11月26日)と浜尾文郎枢機卿(2003年10月21日)である。白柳枢機卿はパリに来られた時、M.E.P.のクリプトで親しく私たちのためにミサをあげて下さったことがある。

教皇は若者へ希望を託しておられた。即ち“世界青年の日”J.M.J.の誕生である。パリの各地で行われた1997年8月の行事には私たちセンターも参加した。M.E.P.の庭にしつらえられたアジアの国々の各スタンドの中で、私たち日本コーナーは一番人気があった。(詳しいことは「センター日記」を参照。)この機会に聖エチエンヌ・ド・モン教会を訪れた教皇を目にすることができたのは幸いだった。

超人的な活動で数多くの業績を残し、新しい福音への道を開いたヨハネ・パウロ二世のエネルギーは一体どこから来たのだろうか?それを解くカギは当初から口にされ、度々繰り返された“恐れるな”のモットーだったように思われる。愛の精神で正しいと信じたことを恐れずに行うこと。イラク戦争の時も敢然として反対し、平和を訴え、好戦派の米英首脳者たちを招いて説得を試みたことは私たちの記憶にまだ新しい。

恐れずに主の道を歩み、己に課せられた使命を最期の瞬間まで果たされたヨハネ・パウロ教皇に心から感謝し、ご冥福を祈ります。
(ドベルグ美那子)

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