洗礼について − 受洗へのきっかけ


石原久子

 今から50年前のことです。丁度高校へ入学し新しい制服で身をまとい大きな希望を胸に喜びいさんで居りました。ある日私にとって重大な数学の試験がやって来ました。この試験はどうしてもよい成績を修め母校の中学へ送られる予定の試験で満点を期待し頑張ってみました。しかし結果は残念…無念…それ以来闇の中で暮らし人生とは何か?何故生きなければならないのか?…考え苦しみ続けました。
数学の先生曰く、幸福を数学的に言えばー欲望分の充足、欲望は無限で充足は有限

結局幸福などこの世にありえない。すべてあきらめである、自分を誤魔化すこと…しかし私は自分を誤魔化すことは出来ません。思い悩んでいた時、白衣を風になびかせ私の前に一人のカナダ人の神父様が現れました。早速彼のジープに乗せられ教会へ案内下さり一人の伝道師をご紹介下さいました。
何とすばらしいお方だったことでしょう。私が何を尋ねても簡単に納得いく方法で説明して下さいました。ネコにつままれた感じ。
その結果、否応なしに洗礼を受けることになりました。しかし、いざ洗礼となりますと、一歩後ずさりをし考え直したいと申しでましたが許してもらえず受洗することになりました…がどうしても決心がつきません。
そこで人生とは神を知り、神のみむねをはたすこと。
それには何が必要なのか? 
神への最短距離とは何か?
神への最短距離とは御ミサにあずかり聖体拝領をすること、聖体拝領が神への最短距離ならばしかたがないが、受洗を承諾しなければなりません。それで洗礼を受けました。それ以来、私の毎日は御ミサを中心に聖体拝領をすることになり続けております。キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに生きることこれが私の生きる目的だと私に納得させることが出来ました。
神に感謝

(2003年3月)