シスター永瀬を偲んで

去る4月5日の朝、アフリカ・チャド共和国で一人の宣教者がその生涯を閉じました。アフリカの土となったのは永瀬小夜子修道女(ショファイユの幼きイエズス修道会)。フランス語圏で活躍なさった同胞に敬意を表し、ン・ジャメナ大司教シャルル・ヴァンダム師による葬儀ミサ説教をご紹介します。

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わたしたちはシスター永瀬の死で非常に動転しています。彼女は生気に溢れていました。ところが、主はわたしたちのもとから突然シスターをご自分のもとに呼び戻されました。わたしたちは彼女を追憶し、彼女のために祈ろうとしてここに集まっています。それは同時にわたしたち自身が、更に深い信仰と希望に生きるためでもあります。これこそ現代に生きるわたしたちにとって特に必要なことです。

 

 二つの朗読(Tコリント12311313、ルカ12353840)は、シスター永瀬の人生の意味をわたしたちにはっきりと理解させてくれます。一方、彼女の人生は、日々の生活においてこの二つのみことばを具体的に生きる道をわたしたちに教えてくれます。

 兄弟の皆さん、あなたがたは、より優れた特別な恵みを得ようと努めなさい。ここで、わたしは、はるかにすばらしい道を示しましょう。

(コリントの信徒への手紙)

この「道」、それは誰でも知っているとおり「愛」です。シスター永瀬の人生の思いを馳せながら、わたしは「実に彼女は、修道女、ミッショネールとなることを選び、カバライの宿泊センターでの献身を通してチャドの教会への奉仕を受け入れることによって、このすばらしい道を選んだのだ。もっとも優れた部分を選んだのだ」、と自分に言い聞かせています。

たとえ地上のすべての言葉、天使の言葉を話しても、愛がなければ、愛に欠けるならば、わたしは何ものでもありません。

地上のすべての言葉を話す・・・、シスター永瀬にはそのような才能はありませんでした。彼女はせめてフランス語だけでも話そうとして何年も努力しましたが、残念ながら非常に期待はずれの結果に終わってしまいました。わたしはこの方の粘り強い性格に常に感心していました。

日本に残っておられたなら、シスターは日本の方々との豊かな人間関係を生きることができたと思います。チャドの教会に奉仕するために、彼女はその喜びを放棄することを受け入れました。シスターは自分にとって非常に苦しいこの言葉のハンディがあるにもかかわらず、心の均衡と喜びを保ち続ける術を知っていました。この喜びはどこから来ていたのでしょうか。その源泉は何だったのでしょうか。わたしたちは答えを知っています。そうです、祈りによって養われた深い信仰に基づく生活にあったのです。この喜びは彼女の生活が真実なものであることを承認するサインのようにわたしには思われます。この喜びは神から来ていました。それは疑いのないことです。

愛は情け深い・・・と聖パウロは続けます。

シスター永瀬の人生の要約がここにあるのです。つまり仕える、仕える者の場を占める、昼夜を問わず旅人たちの必要に応えようと備えている、常に一人一人の必要に応えようと構えている…そこにいる、いつもそこにいる。それだけでも大したことです。隣人を愛すること、それは隣人に奉仕することです。彼女は聖ヨハネ福音書の洗足のシーンを読み、膝を屈め、弟子たちの足をお洗いになる主を観想しました。シスターはそこから教訓を学び取りました。そして自分も同じようにしました。ただ主と同じようにしただけです。生涯を通じて・・・

愛は忍耐強い・・・

シスターは非常に活動的な方でしたので、忍耐するためにどれほど努力しなければならなかったでしょうか。

愛はねたまず、高ぶらず、誇らない・・・ 

わたし達のほとんどの者が従事している司牧活動は危険に満ちています。人々から知られること、取り巻かれること、称賛されること、愛されること、自分がすべての中心であることに満足感を覚え、そのレベルで止まってしまい、イエス・キリストよりも自分に人を引きつけることに心を奪われてしまう恐れがあります。自己満足感に襲われる危険があります。虚栄と高慢は宣教の場での働き人を脅かします。シスター永瀬は思うように言葉を話すことができない国で宣教活動に従事していましたが、この宣教活動によって、一挙により高い他のレベル、 ― 離脱、純粋な意向、自己放棄、単純さ・・・などが支配するレベル、この世の虚栄がいかなる支配力も持たないレベル ― つまり神のみ手の中に導かれました。

聖パウロがわたしたちのために残してくれた、愛についてのことばをもう一度聞きましょう。このことばに、シスター永瀬の人生をはっきり読み取ることができます。

 愛は寛容なもの、慈悲深いものは愛。愛はねたまず、高ぶらず、誇らない。見苦しいふるまいをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数え立てない。不正を喜ばないが、人とともに真理を喜ぶ。すべてをこらえ、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ。愛はけっして滅び去ることはない。

 ルカ福音書に耳を傾けましょう。

あなたたちは、腰に帯をしめ、灯をともしていなさい。あなたたちは主人が結婚の披露宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしなさい。・・・あなたたちも用意していなさい。思わぬ時に人の子は来るからである。

シスター永瀬は、外見は健康そうでした。わたしの目には揺るぎない岩のように映っていました。ところがわたしたちが思いもかけない時に、「人の子」は彼女を迎えに来られました。確かに彼女は準備ができていました。毎日、そこに立って、旅行者を迎えていました。シスターは旅人を迎えながらイエス・キリストを迎えていることを知っていました。主が自ら不意にやって来られ、シスターの戸をたたかれた時、彼女は主を迎える準備ができていました。次のみことばを聞きましょう。これはわたしたち全員のために主がくださるみことばですが、シスター永瀬にピッタリのみことばだと思います。

主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られるしもべたちは幸いである。あなたたちによく言っておく。主人が帯をしめて、そのしもべたちを食卓につかせ、そばに来て給仕をしてくれるであろう。

わたしたちの謙遜に応えてくださる神の謙遜の秘義。わたしにはこの秘義を説明するためのことばがありません。

シスター永瀬の死はその人生の他の行為と異なったものではありませんでした。彼女の人生の一部でした。人生最後の行為以外の何ものでもありませんでした。よい死を準備するにはひとつの方法しかありません。それはよく生きることです。主がわたしたちを迎えに来られるときに、主を迎える方法は一つしかありません。それは、隣人を差別なしに迎えることです。シスターはそれを実行しました。何と幸せな方だったのでしょう。

わたしの大好きな聖母讃歌があります。

だれも、その女(ひと)について話さなかった。

ガリラヤのカナに彼女がいたこと以外には…

だれも、その女について話さなかった。

十字架のもとにたたずんでいたこと以外には…

この歌詞はシスター永瀬のことを思わせます。チャドの報道機関は彼女について何も報道しないでしょう。シスターは内的な方でした。内面に心を向けましょう。そこでこそ、わたしたちは彼女に出会うでしょう。シスター永瀬をわたしたちに送ってくださった主に感謝しましょう。隠された宝です。

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皆さまのお祈りありがとうございました。

Requiescat in pace.