2004年10月24日
C年 年間第30主日

第一朗読:シラ書35、12-14.16-18
詩篇:33
第二朗読:2テモテ4、6-8.16-18
福音朗読:ルカ18、9-14

  祈るために神殿に上る二人の男の間に、イエスは、「義とされて、家に帰ったのは、徴税人の方であった」と譬(たとえ)話を結びます。
「義とされる」とは、「神に受け入れられる」と理解しなければなりません。
パウロのローマ人への手紙を読むために、金曜日集まる皆様は、これをよくご存知のことでしょう。
神に受け入れていただくために、どうしたらよいのか。これはイエスの非常に大事な、根本的なメッセージです。
「自ら義(ただ)しい人間である」と自負していた男が、拒まれた理由は、いくつかあります。そのひとつは、神殿の後ろで祈っている徴税人をさして、「彼のようなものでないことを感謝します」と祈ったことにあります。
もし彼が、「私のことは構いませんから、先にあの男を省みてあげた下さい」と祈っていたら、異なった結論になっていたでしょう。

神は罪びとの滅びることをのぞまれない、99匹を置いて1匹の迷った羊を探しに行かれるかたです。今日のファリサイ人は徴税人を軽蔑することによって、神の心を無視したのです。そんな彼が、神に受け入れられる筈(はず)がありません。

彼が拒まれたもうひとつの理由があります。それは十戒の掟だけではなく、モーゼの律法、全ての掟を守ってきたことをも誇ったことにあります。
「週二度断食し、全収入の十分の一を捧げています」と。
積極的に掟を守るように努力したことは、確かに良いことですが、それは自分で誇るべきことではありません。
「取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです」(ルカ17/10)と謙遜に語り、パウロが言うように、「神の恵みによって、今日の私があるのです」(1コリント15/10)と全ての良いことは、恵みとして、神に返すべきです。
ファリサイ人の問題点は、恵みが理解できていなかったことにあります。もっと根本的なことは、彼が自分の中に、人間の力では克服できない深い罪の闇があることを、捉えていなかったことにあります。
人間の罪深さは真面目に生きてきたというようなことで、克服できるほど簡単なものではありません。

もし、掟を守るというようなことで、人間が神に受け入れられるなら、イエスの十字架の意義は消えてしまいます。どんなに私たちが修行を積んだとしても、息を引き取る最後の瞬間まで、罪を犯してしまう可能性はあります。それほど罪の根は深いのです。
神の前では、私たちはあくまでも罪への傾きが強くあります。それが人間の真実なのです。51番の詩篇が示すように、「神は人間のまことを望みます」。

徴税人の強さは、「罪びとの私を憐れんでください」と胸を打つことに徹したことにあります。彼が義とされたのは、罪びととしての自分の真実に立っていたからです。
ファリサイ派の男が拒まれたのは、自分の真実の上に立つことが出来なかったからなのです。

P.Dunoyer 2004-10-24

 

 

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