主の昇天の主日の説教


第一朗読 使徒言行禄1・1-11
答唱詩篇 詩篇47
第二朗読 ヘブライ人への手紙 9・24-28、
                                10・19-23
福音朗読 ルカによる福音 24・46-53

使徒言行禄を詳しく読んでみると、間違いなくイエスの昇天の時から、イエスを見送った弟子たちには不思議な明るさがあふれています。

「大喜びでエルサレムに戻り、神殿の境内で神をほめたたえていた」と書いてあります。

 イエスの昇天の時から、弟子たちが示した様々な人間的な迷い、怯え、不安などは全く消えてしまいました。そのような不思議な、大きな転換を与えたのは、キリストの復活と昇天です。イエスの復活体験が彼らの人間性を変えてしまったのです。

 例えば、ペトロのことを思い出しましょう。かつて彼は「罪びとの私から離れてください」と叫んだことがあります。当時の彼の心は、罪にけがれた人間は、神に近づくことは許されないという思いに縛られていました。ところが、今の彼には、それが見られません。それは復活されたイエスが彼の罪を咎めるどころか、無償で赦してくださることを知って、死に勝ったイエスのそばにいるところ、そこにしか自分たちの究極の救いはないという確信を得たからです。

 弟子たちも変わりました。かつて彼らはイエスから別れを告げられた時、動揺したことがありましたが、今はイエスの別れを前にしても、動じておりません。それはイエスの交わりが死も分かつことができないものであることを知ったからです。

 また彼らはユダヤ人たちを恐れて、閉じこもっていたこともありました。イエスを十字架につけた残虐で非人間的な暴力に怯えていたのです。しかし、復活を通してどんな暴力も破壊することの出来ない神の絶対的な力があることを目のあたりにして、この世界のどんな暴力も恐れるに値しないという確信ができたのです。

 弟子たちにとって、十字架と復活は暴力よりも神の愛のほうが遥かに力があることを示しています。憎しみはイエスを殺することによって勝利を得たかのように見えましたが、それは一時的なものでしかない。復活は神の愛がそれよりも深いものであることを明らかにしたのです。

 「大喜びでエルサレムに戻り、神殿の境内で神をほめたたえていた」

 この喜びの根元は自己満足ではなく、主イエス・キリストとの交わりに根ざすもので、最初のキリスト者共同体の特徴でもあります。

 パウロは高らかに宣言しています。「誰がキリストの愛から私たちを引き離すことが出来ましょう。艱難(かんなん)か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。これらすべてのことにおいて、私たちは私たちを愛してくださる方によって、輝かしい勝利を収めています。死も、命も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです」(ローマの信徒への手紙、8章35−39節)

 弟子たちもそのような信仰に生かされ、昇天されたキリストの愛を中心にした希望に満ちた歩みを始めて、キリストの証人(あかしびと)になりました。

2004-05-23, Pierre Dunoyer

 

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