2003年27 日 復活節第2主日


第一朗読 使徒言行禄 2・32-35
第二朗読 使徒ヨハネの手紙 一  5・1-6
ヨハネによる福音 20・19-31

Pierre DUNOYER神父

復活第二主日にあたり、イエスがトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われた。信じるということには、見たかどうかは大事なことではありません。見ても信じないこともあります。むしろ、「聞く」ことが大事なのです。何を聞くのかといえば、神のことばであり、宣教のことばです。
 今朝、キリストの復活のよろこびに満たされて、神のそのことばと、キリストのそのパンをも分かち合うまえに、心をあらためましょう。

人類の歴史は、戦乱、戦争、闘争の歴史です。どこの国でも、世界の「グロバリゼーション」の現象で、たやすく解けないたくさんの問題が起こります。
 失業者と移住民の増加と同時に、強盗、スリ、暴力、学生同士の度重なるイジメなどの増加も、どこの国にも見られます。そういうわけで、今の社会ではかなりの数の人々が、家に閉じこもり、社会生活が出来なくなっているとよく言われます。
 その人たちのことを考えてみると、様々な事情があると思いますが、度重なるイジメによって彼らの心の奥に人間に対する不信感が、深く根づいてしまいました。「人間が怖い」という人が少なくないでしょう。
 確かに、現実世界は荒々しく、厳しく、そして残酷です。その世界に一人で向かいあうことの出来る人間は、そう多くありません。
 感じやすく、傷つきやすい人ほど家にこもる方を選んでしまうのです。
 それが深まると、社会と自分に対する諦めが大きくなっていきます。
 
 今日の福音書の中に登場する弟子たちもそうです。彼らはユダヤ人を恐れて、家の中に閉じこもっています。イエスをこの地上から抹殺してしまった権力者たちの残酷な取り扱いに怯えてしまっています。彼らも傷つきやすいやさしい心の持ち主であったのでしょう。人間社会に対する絶望と不信、そして自分たちの無力感。弟子たちのなかでも特にトマスにおいては、それはさらに深いものであったでしょう。トマスはかつて、エルサレムに行こうと言うイエスの意志が固いのを察して、「私たちも行って、先生と一緒に死のうではないか」(ヨハネ 11/16)と自慢したことがあります。彼は大胆な男だったのでしょう。しかし、危なくなった時、イエスに背を向け、逃げ去ってしまったのですから、彼は他の仲間よりも、自己を嫌う気持ち、「自己嫌悪」で苦しめられていたでしょう。
 家に閉じこもる多くの人々の心の中には、現実に負けてしまう自分自身に対する苛立ちがあって、世界への怯えと自分自身に対する「嫌悪感」もあります。それを自らの力で乗り越えることは難しいことです。

 復活したイエスはそれを吹き飛ばしてしまうのです。現実に打ちのめされて、自信を失ってしまった弟子たちをイエスは暖かく包みこみます。
「あなたがたに平和」ということばが三度も繰り返されていることは注目すべきことです。弟子たちは復活したイエスから神の絶対的な愛と力を体験します。またトマスの懐疑心に固くおおわれてしまった心も、思いやりと優しさに満ちたイエスのことばによってとかされていきます。復活は弱い人間に再生の道を開いたのです。

2003年4月27日