説教、2003,1月12日

原田雅樹神父 o.p.

イザヤ書 12、2-6

ヨハネの手紙一、5,1-9

マルコ 1、7−11

今日は、主、イエス・キリストの洗礼を祝います。そして、読まれた福音は、マルコ福音でした。このマルコ福音には、お告げの物語も、イエスの誕生の物語も、羊飼いとか学者が赤子のイエスを訪ねた物語も、少年時代に、親にどこに行くとも言わずに、旅の途中で親からはぐれて親に心配をかけた物語も何もありません。マルコ福音は、洗礼者ヨハネの宣教で始まり、そのあとすぐに、今日の朗読箇所が来ます。イエスが、ヨハネから洗礼を受けます。霊がイエスの上にとどまり、父なる神の「あなたは私の愛する子、私の喜びの子」という声がします。登場するのは、イエス、ヨハネ、父なる神の声、霊の鳩のような姿です。実に淡々とした福音の書きだしです。今日は、読みませんでしたが、すぐあとに、「それから霊は、イエスを荒れ野に送り出した」とあります。その次には、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへいき、神の福音を述べ伝える」のです。父なる神の声は、イエスの変容のときまで、不在です。イエスの洗礼は、ある意味で、この世における神の不在の中でのサタンによる誘惑の体験の前座であり、正義の人ヨハネが牢に入れられるということを目の当たりにする人間世界の不条理の体験の前座であります。そして、何よりも神の国を述べ伝える宣教のはじめ、正義の人ヨハネがそれゆえに牢に入れられてしまった正義と悔い改めと罪の赦しを自分でも述べ伝えていく宣教の始めでもあります。

私たちは、人生の中で、何回か本当に自分は大切にされたという体験をした事があると思います。親でも、友人でも、恋人でも、人生の連れ合いでも、同じ修道生活を歩む兄弟でも、「私は、あなたを愛している」、「あなたは私の喜びです」と一度でも呼びかけられたということは、人生の原点になります。もしかして、そんな体験を自分はしなかったという人がいるかもしれませんが、少なくとも、この世に生を受けたということは、神様から「あなたは私の愛する子」と呼びかけられて存在しているということのしるしですし、ことに洗礼を受けている人にとっては、自分が、本当に神様の喜びであるということを忘れてはなりません。そして、洗礼を受けてキリストの弟子になったからには、「あなたは私の喜びです」と他の人に呼びかけながら生きていかねばなりません。この呼びかけをすることに何の責任も感じることのなくなった共同体は、洗礼を受けたものの共同体として何の意味もありません。子である神が、徹底的に人間となったということを何も理解していない共同体になります。

洗礼を受けて、「あなたは私の喜び」と神から呼びかけられ、人にそう呼びかけていくということは、何か甘ったるい愛によって閉鎖的なあるいは甘えによって支えあっていく共同体を作っていくことでもありません。家族でも、宗教共同体でも自己閉鎖的な愛に閉じこもってしまったら、キリストの弟子の共同体としてまったく反対方向にいってしまうことになります。私たちは、クリスマスの後、2回ほど日曜日を祝いました。1回は、聖家族の祝日、もう一回は、Epiphanie でしたが、世の誰もがうらやむような家庭を築くことに四苦八苦するだけで、家庭の外の人に対しても、特に自分の存在が喜びであると感じていない人に対して「あなたは私の喜び」という呼びかけをしていかない、そのような家族があるなら、Epiphanie のあとすぐに赤子の虐殺を目の当たりにし、エジプトに逃げる家族の意味を何も理解していないことになります。今日は、イエスの洗礼のときにイエスの上にとどまったその同じ霊が、イエスを苦しい試みに満ちた荒れ野に送り出すのです。愛の呼びかけは、同時に愛の厳しさでもあります。荒れ野では、父なる神の声が聞こえてくるのではなくて、サタンの試みが待っているのです。そのあとでは、イエスは自分に洗礼を授けてくれた人が、正義のゆえに投獄されるのを見て、自分も神の正義と赦しを述べ伝え始めます。その非常に、危険な使命を自分の使命としていくのです。自分も彼と同じ運命に合うかもしれないということを覚悟しつつその使命を受け取っていくのです。そのことを可能にさせてやるのが、神の「あなたは私の喜び」という呼びかけであり、この呼びかけこそ本当の意味での私たちキリスト者の他者への、特に愛する人への呼びかけとなっていかなければなりません。

自分が、ある人に本当に大切にされた、本当に大切にされているという愛の原体験が、人を愛し、たとえその人が感覚的に捉えられないところにいても勇気をもってその人のまなざしのもとに、あるいは、その愛の体験の記憶のもとに自分の人生を歩んでいく原動力になるのだと思います。それと同じように、洗礼の時に受ける神様の「私の愛する子」という呼びかけが、神の不在の世の只中で、神の正義と赦しを述べ伝えていく原動力になっていくのだと思います。

人は、人生の中で、深く愛されているという体験と、誰にも愛されていない、誰にも受け入れられていないという体験の間をゆれて生きていくのでしょう。本当の人となったイエス・キリストは、この体験をもっとも深く生きました。「あなたは私の愛する子、私の心にかなうもの」という父である神の、人となった神の子への呼びかけでマルコの福音は始まりますが、この呼びかけこそが、十字架を前にしてすべての弟子が離れ去るという人間の愛の不在を前にしても、父である神にイエスを誠実にとどまらせるのです。そして、その父の子への愛、子の父への誠実があったからこそ、このエウカリスチアにおける祭壇の犠牲があるということを忘れないようにいたしましょう。洗礼は、その祭壇の犠牲への参与です