主日の説教

2002年10月27日

A年第30主日

第一朗読:出エジプト22、20-16

詩篇17

第二朗読:1テサロニケ1,5c-10

福音朗読:マタイ 22、34−40

今日読んだマタイの福音の並行箇所は、マルコとルカにもみられます。聖書を読むとき、それぞれの福音記者のパースペクティヴいうものにあまり注意を払わずに読むんでしまうことが多く、どれもこれも一緒くたにして、キリストの言葉とか、生き方を理解していることがとても多いと思います。それは、それで、キリストが誰かということをひととおり理解するうえで必要なことかもしれませんが、非常に教科書的で、とても平たいキリスト理解になってしまう危険があります。そこで、それぞれの福音記者、今日の場合はマタイが、どのようにキリストを理解しているかをそれぞれの文脈の中で理解してみようとしてみるのは、時としてとても大切なことです。

まず、マタイの特徴をつかむためにほかの福音書と注意深く比較してみましょう。
マルコでは、「議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て,尋ねた。「あらゆるおきてのうちで、どれが第一でしょうか。」」とあります。
ルカでは、律法の専門家がイエスを試そうとして「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたのに対して、イエスが、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問い返し、律法の専門家がそれに答えるという形になっています。そして、隣人とは誰かという問いが、律法の専門家によって主題化され、イエスは、かの有名なよきサマリア人の喩えをします。今日読まれた箇所の並行箇所は、その喩えのイントロダクションのようになっていて、その答え自身に注意がはらわれることはあまりありません。
さて、マタイでは、パリサイ人の一人で、律法の専門家がイエスを試そうとして、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねます。ここでは、ほかの福音書では主題化されていない律法が主題化されています。当時、ファリサイ派の間では、律法のうちでどれが一番大切かというのは,ホットな話題でした。彼らにとって、おきてとは、具体的に目に見える形で神の教えを実行に移すもので、それ自体は悪いものではありません。「偶像崇拝が一番大きな罪であるという掟が一番大切だ」とか「安息日を厳格に遵守することは他のどのおきてにもまして大切だ」といったことを議論するのです。イエスは、ファリサイ派の人たちの考えに反して、自分を人の子と呼んで安息日に人を癒したりなんかしているわけですから、彼らは、何とかイエスを亡き者にしようとするわけです。イエスは、別の箇所で、ファリサイ人に安息日を守らない弟子たちのことをとがめられた際に「もし、私が求めるのは憐れみであっていけにえではないという言葉の意味を知っていれば、あなたたちは、罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである」とも答えています。そういうわけで、このファリサイ人のイエスへの問いかけが、イエスへのわなにもなるわけです。安息日の教えが、最も重要なおきてのひとつであると答えようが答えまいが、イエスは窮地に立たされることになります。

そんな切羽詰った状況のなかでイエスは、「「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要なおきてである。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」律法全体と預言者は、この二つのおきてに基づいている。」ここで、読みすごしてしまいがちですが、「これと同じように」というのが、ほかの福音書になく、もちろん、旧約聖書の中にもなく、マタイに特徴的です。この二つの教えのそれぞれは、イエスが新しくおしえはじめたことでもなんでもなく、どちらも、旧約聖書のとても有名な箇所から取ってきているに過ぎません。ユダヤ教のカテキズムを受けている人なら誰でもそのように答えられたことに過ぎません。この二つの教えを「これと同じように」という短い単語でつないだことが、イエスの神とのかかわりとメシアとしての自己理解、そしてマタイのキリスト理解の鍵なのです。神を身も心も尽くして愛し、「それと同じように」自分を本当の意味で愛し、「それと同じように」隣人を愛すること。

また、私たちは、マタイが、私たちに伝えてくれた主の祈りで「私たちは、人を赦します。」それと同じように「私たちの罪を赦してください」と毎日祈ります。私たちが、人の罪を赦すことは、ある意味で私たちが神によって赦されることの条件です。

神を愛することと人を愛すること、そして、人を赦すことと神に赦されること、これらの間は、「それと同じように」という一種の神秘的な言葉でつながれます。神を身も心も尽くして愛し、「それと同じように」自分を本当の意味で愛し、「それと同じように」隣人を愛すること。逆に言えば、人間は、隣人を愛するようにしか、自分を愛せないし、神を愛せないということだと思います。そして、神を愛するようにしか、自分を、そして隣人を愛せないということだと思います。ここでは、人を神のように思って偶像崇拝せよといっているのではありません。人を愛さないで、人を赦さないで、少なくとも赦せるように祈ることをしないで、日曜日、私たちの安息日にミサに行き、あるいはいろいろな信心業をして、神様を愛していると思い込むこと、あるいは、自分の個人的な安息を得ようとするのは、幻想だといっているのです。私たちの理解をはるかに超えたかたちで私たちを導く神を愛さないで、自分の計画どうりに自分の人生を送っていくのに都合のよさそうな人とだけ付き合って、自分は人を愛しているように思うのは、幻想的な愛にしか過ぎないと言っているのです。十字架にかかって、人間の醜さと意地悪さの只中で傷ついた「顔」をさらけ出した人となった神を愛さずに、人間の弱さ、醜さに向き合わずに自分に心地よい世界だけに生きて、ロマンチックな気分(往々にして宗教的ロマンチックな気分)に浸って、人を愛していると思い込むのは幻想だといっているのです。

人間にとって、赦しがどれだけ難かしいかということや、神が人間に与えてくれた最大の贈り物のひとつである自由の中で本当の意味で人が人を愛することがいかに難しいかを、日々見せつけられる現代、私達の信仰にとって、愛するということがいかに緊急な課題であるかということを念頭におかなければなりません。


全能者の神が、私たち一人一人を愛し、呼びかけながら存在を与えてくださった。深い無から存在へと呼び出した全能者としての愛をもって神は愛してくださった。「それとおなじように」、人となった神が、傷ついた人間性の只中で、人間として私たちを愛してくださった。それを記憶し、今も私たちはその中に「それと同じように」生きているということを祝い、感謝するのがミサです。その神を私たちが、身も心も尽くして愛せるよう、そして、「それと同じように」人を愛せるようにお祈りいたしましょう。

アーメン

原田雅樹神父

 

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