2002317日 四旬節第五主日

 第一朗読 : エゼキエルの預言 3712-14

 答唱詩篇 : 詩篇 1301+25+67a+8

 第二朗読 : 使徒パウロのローマの教会への手紙

 ヨハネによる福音 113-7, 17, 20-27, 33b-45

デュノワイエ神父の説教

四旬節第5週の三つの朗読のテーマは、体のよみがえりです。

イエスはラザロをよみがえらせ、「私は、復活であり、命である。私を信じる人は、死んでも生きる。生きて、私を信じる人は、永遠に死なない」と言っておられます。今朝、私達は堅くこれを信じ、罪の死からも、よみがえることが出来ますように、神の赦しを願いましょう。

 「ユダヤに行こう」
  イエスのこの言葉は、単にベタニアへ行くだけでなく、危険に立ち向かうイエスの決意を示します。この旅は、エルサレムへのイエスの最後の旅です。
「また、あそこへ行こうとするのですか」
これは弟子達が、イエスと共に危険に立ち向かいたくないことを示します。

今日の福音のエピソードの中心になる人物は、病んで、死に、墓に葬られたラザロです。しかし、その物語に登場するすべての人物が、皆、死と関わっています。ラザロとその姉妹、イエスとその弟子達、行われた奇跡の目撃者達とエルサレムの大祭司たち。今朝、この物語を黙想する私達も、死と関わっていませんか?
 物語は、「あなたの愛しているものが、病気です」という知らせに対するイエスの「この病気は死で終わるものではない」という言葉で始まります。それは、ラザロのよみがえりを間接的に示すものですが、その前に当然に体験しなければならない死を許すものです。
  イエスは死をたやすく解決しようとする気持ちはありません。死が弱い人間に与えるすべてを、ごまかさず、逃げずに受けとる。それがイエスの生き方でした。

 この点で、イエスは徹底しておられました。
  事実、イエスは十字架の死が待っていることを知りながら、敢えてエルサレムに向かおうとしております。

 十字架の死が、どんなに深い苦悩をイエスに与えるものであるかは、ゲッセマネの園の祈りを見れば、分かります。
  どんなに苦しくても、避けることの許されない現実の全てを受け取る、それが、イエスの生き方であったのです。

 ラザロの出来事によって、エルサレムの大祭司たちがイエスを殺そうとする心は、決定的なものになります。 危険人物と判断したイエスを、闇の中に葬りさってしまおうとするのです。
 彼らは現実を謙虚に忍耐強く受け取るのではなく、暴力によって解決しようとします。そこに彼等のあやまちがありました。

 イエスの意志が堅いものであることを知った弟子達は、「私達も行って、一緒に死のう」と勇ましい気持ちを表明します。 彼らも、イエスと関わることによって、何度も死の現実に向き合わされていたのです。
 しかし、その生き方は甘く、徹底していませんでした。
 苦悩のすべてを抱きしめることが出来ず、死の恐怖に負けて、楽になることを願って、逃げ去ってしまったのです。

 マルタとマリアは、逃げることの出来ない、愛する兄弟の死の悲しみに、すっかり覆われてしまいます。
「終わりの時に、復活するだろう」という信仰に支えられてはいますが、悲しみの深い淵を突き破る光を見出してはおりません。

 ここで、注目すべきことは、もう一つあります。ラザロの墓の前にたったイエスの涙です。その涙は、ラザロがイエス自身にとって、親しい友であったことを示すと同時に、イエスも深い悲しみに包まれてしまっていることを明らかにするものです。
イエスは悲しみの杯の全てを、何一つ避けずに、飲み干したのです。

 ラザロの墓からのよみがえりは、死の闇をくつがえす大きな力が存在することを証しするものであり、 キリストの復活のしるしです。復活は闇の淵をはるかに超える光の世界です。人生の苦悩の全てを逃げずに受け止め、謙虚に誠実に生きようとする者に、約束された希望です。

[森一弘司教の著作を参考にさせていただきました。]

ラザロの復活
レンブラント (1606 -1669)
「 ラザロの復活」 (1630) Los Angeles County Museum of Art