復活節第二主日説教

ヨハネによる福音20章19-31節

原田雅樹 o.p.

  ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」という小説の中に「反逆」という節があります。それは登場人物の一人イワンとその弟の敬虔な修道士のアリョーシャの対話ですが、キリストの十字架と復活についてとても深く考えさせられる一節なので、まずそれを紹介したいと思います。イワンは苦しみ、特に無垢な子供の苦しみについての考えを弟のアリョーシャに語ります。人間の子供に対するいろいろな残虐な行為について語りますが、その中に親の子供に対する虐待があります。子供がおもらしをしたというだけの理由で、その子にひどい仕打ちをし、トイレにとじこめる母親の例をあげます。イワンは言います。「だいたい、認識の世界を全部ひっくるめたって、「神さま」に流したこの子供の涙ほどの値打ちなんぞありゃしないんだからな」

  きょう、今から洗礼を受ける奥野順子さん、ガゼル出口敬子さんは、洗礼を受けるために、神様について、キリスト教について知ろうとクラスに熱心に参加してきました。神様についてのいろいろな知識、キリスト教の教えを学ぶことは、とても大切なことですが、次のことを絶対に忘れないでください。キリスト教について一生懸命学び、いろいろ知ったとしても、それは人間の苦しみ、 Miseres と切り離されてはなんの意味もありません。無意味な戦争に巻き込まれて「助けて」と叫ぶ子供の声、若い娘を病気で亡くし、自分の手の届かないところにいってしまった娘のために神様に娘を守って下さいと祈る母親の涙、社会の軽率な風潮にまきこまれて、一人の人を愛してしたと信じて行ったことが深い傷しか残さなかった一人の少女の涙と新しい人生を歩み始めようとする血のにじむような努力などと切り離されてはなりません。人間の悲惨と苦しみ、特にいかなる意味付けも許さない人間の苦しみ(つまり、これこれの目的のために今はあれこれの忍耐をするという意味付け可能ではない苦しみ)とそれに対する共感は、キリストが十字架を引き受けたことの中心にあります。今日お集まりの皆さまの中には芸術家、医療の現場、その他いろいろな場で働く人がおられると思いますが、この人間の苦しみに対する共感をとぎすまし、それをいろいろな形で表現していっていただきたいと思います。そして、その人間の苦しみとそれへの共感は、言葉で説明できない仕方で、キリストに呼ばれ、キリストの体の一部となった共同体の使命・Vocatioと切り離せない形で結びついているのです。

  きょうの福音の中では、恐れて自分たちの中に閉じこもっていた弟子に、復活されたイエスがあらわれます。人間の業(ごう)と人間の苦しみへの共感のただ中でもっとも悲惨な死をとげたイエスが復活して弟子たちを訪れるのです。そして、私達を平和の使者として、罪の赦しの使者として遣わします。洗礼を受けて、私達は平和を告げ知らせる者、神による罪の赦しを告げ知らせる者となります。しかし、この平和、神による罪の赦しは、人間の悲惨、苦しみから目をそらし、それをおおい隠したものではありません。人間の苦しみへの深い共感に生き、人間のみにくさ、いやらしさを正面から受けとめた十字架上のイエスの死を通った平和、罪の赦し、そして復活の喜びを私達は告げ知らせるように呼ばれています。

  きょうのごミサの中で、私達一人一人が、特に洗礼を受ける二人、敬子さんと順子さんが、人間のいやらしさとみにくさのただ中にあっても、それを正面から受けとり、その中で創造とともに与えられ、キリストによっていやされた、人間の美しさ、人間の Misereをはるかに超える美しさと平和を生き方、そして言葉によって告げていくことができますようにお祈りいたしましょう。

2001年4月22日

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