金祝感謝ミサ説教 

- 司祭叙階50周年にあたって -

説教中のデュノワイエ神父

 

  司祭叙階50周年を機会に決算報告書を出さなければならないでしょう。私の決算報告書を調べてみると、バランスがとれているかどうか…? いいところ、悪いところ…、職務の怠りは多かったと思います。お詫びいたします。 しかし今朝は、司祭叙階50周年の機会に古い時代を懐かしがって自分を語るよりも、50年の間に少しずつ神について理解したことを話したいと思います。

  若いとき習ったのは、神が無限に完全な方で、全知・遍在・全能であって何でもお出来になる!ということでした。すると、頑固に神の門を叩くなら開かれると思って、なお激しく叩くようになります。
   違います!神は人間を制限し、脅かし、罰し、人間の価値を下げてしまうものではありません。
   神は愛です。福音の精神を理解し知るために、鍵はひとつしかありません。それは、神が貧しく、弱く、無防備で、愛することしかお出来にならないことを知ることにあります。神は愛だから、愛が出来ないことを神はお出来になりません。この意味で神は弱いものです。神は常に、永遠の愛の期待のうちに待っておられます。神は物乞いのような方です。

   神は、本当にそんなに弱いものですか? イザヤ書で、神の僕の苦難をもう一回読んでみてください。それから、十字架にはりつけられたキリストの姿をも、思い出してごらんなさい。
   十字架とは、泣いておられる神、私たちの愛の拒絶によって死なれる神です。神は愛だから、神のうちには苦しみがあります。神のうちには、愛があると同時に苦しみがあります。
   もちろん、それは神自身を滅ぼす苦しみではありません。その苦しみは、愛する者とひとつになった苦しみです。母親が息子のすべての状態を苦しむように、死の苦しみ、痛み、病気、悲惨、孤独、失望、罪など、すべてを痛めつけるものを、神は私たちのうちに、私たちのために、私たち以上に担われてお苦しみになります。

  神についてやっと理解したもう一つのことがあります。神は何も持たない。神は貧しい。キリスト者たちが信じる神は永遠にすべてをあたえられた神です。神は自分のために保っているものはすべて与えて、すべてを失います。その一人息子さえも! 神は何も持たないゆえに神なのです。神は愛だからです。

   経験でわかったことがもうひとつあります。どんな罪よりも重い、一番重大な罪は「エゴイズム」です。
   私たちの第一の犠牲者は、まず神なのです。「エゴイズム」は、人間の生活のうちで神を十字架につけることができます。
   キリストのうちで、誰でも神を殺すことができます。なぜなら神は無防備な方だからです。神はかわいそうな方です。神のうちには無限の弱さ、幼子の姿もあるからです。だからキリスト者である私たちは、神を助けなければなりません。 昔から私たちは、どんなことがあっても全能の神が助けてくださると確信しています。 逆に考えなければなりません。私たちは、神を助けて慰めなければなりません。

  神を助ける方法は簡単です。 他人のうちで、神を慰めることです。

 

Le 18 Fevrier 2001
Pierre DUNOYER, M.E.P.

 

デュノワイエ神父

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