クリスマスの説教

ヨハネによる福音 1:1―18
原田雅樹

  言葉は神であり,命であり、光であった。 言葉、命、光とはなんでしょうか。それらは、私たちの日常生活から切り離せませんが、ほとんどそれらのことを意識にのぼらせることはありません。それなしには、私たちの命は不可能であるにもかかわらず、その大切さを忘れ、それがたえず与えられていることを感謝することもなく、毎日の生活を送っています。それらが、欠けている状態、すなわち、沈黙、死、闇が、それを思い出させてくれます。比喩的に、沈黙、死、闇は、私たちの霊的生活につながっています。が、それ以前に人間の悲劇につながっています。すなわち、不正義を前にした沈黙、理由のない死、希望のない闇などです。そして、またその人間の歴史から消し去られようとされているその悲劇を証言する正しい人がいます。なぜならば、悲劇の中のもっとも大きな悲劇は、その悲劇的な出来事の記憶を歴史の闇に葬り去ることだからです。記憶を抹殺しようという悲劇が幾度となく、この二十世紀に起こりました。多くの人が、その苦しみを叫ぶこともできないまま、人間の歴史から消し去られようとしています。多くの人が、何も理解できないままにその死を受け入れ、忘れ去られようとしています。多くの傷ついた人が、その新たな人生を始めたいと願いつつもそれができず、社会の陰でひっそりと生きています。きょう誰がそのひとのことを思い出すでしょうか。多くの人が、あたかも存在しないかのように私たちの社会の中で生きています。正しい人は、私たちが彼らのこと、彼らの沈黙、彼らの死、彼らの闇を思い出すように彼らのことを証言しつつ「彼らは尊く存在した。かれらは尊く存在している」と叫びます。私たちが、その現に存在している沈黙、死、闇から背を向ければ向ける程、私たちは、真の言葉、真の命、真の光を受けることができなくなります。

  この人間の現実に照らして、このヨハネ福音のプロローグを読んでみましょう。それは、神が言葉であり、命であり、光であると告げます。ほとんどの宗教が、命の大切さ、光の希望をつげます。光はすべての物を存在させ、生きるものを養います。生きるものは、光に向かっていきます。私たちは、光に向かって歩こうと言います。私たちは、命に大きな価値を与えます。「汝殺すなかれ。」私たちの信じているキリスト教とて、同じです。言葉もすべての宗教の中で大きな役割を持っています。言葉の力によって、神の取り次ぎを願い、言葉によって誓いをします。また、創世記では、神は言葉で世界を造りました。「神は言った。「光あれ。」すると光があった。」これらすべてのイメージはプロローグの中にあるといえるでしょう。出来事を起こす言葉、すべてのものの頂点にたつ命、希望を与える光。しかしながら、福音記者は、続けます、「言葉は肉となった。」 神が真の人となった。クリスマスはこの受肉のお祝い以外の何ものでもありません。受肉は恩寵の中でもっとも大きな恩寵です。それは、人間の歴史の要です。

  それでは、なぜ受肉なのでしょうか。人間の弱さの故に傷ついた歴史の中で歩むために御言葉が肉となった。御言葉自身が、人間の歴史の沈黙、死、闇の中に入られた。神は真の人となった。言葉は、十字架上で沈黙の体験をし、命は、正当な理由なしの死を受け取り、光は、闇の力と戦う。十字架上で、不当な理由での死を前に、父である神の沈黙の中で、「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」とキリストは叫ぶ。なぜ、神が真の人となり、人間のすべての現実を受け取ったのでしょうか。それは神が私たちと共に歩くことをお望みになったからです。それらすべてを通して、真の言葉は沈黙にうち勝ち、真の命は死にうち勝ち、真の光は、闇にうち勝ったのです。

  洗礼者ヨハネは真の光を証言して、叫びました。私たちも、希望の光を証言しなければなりません。しかしその証言は受肉の上に基礎付けられなければなりません。神は真の人となり、彼自身人間の悲劇を証言しました。光自身が、闇のただなかで、証言したのです。今、子なる神は、父なる神のふところで、人間の悲劇と傷を証言しています。子なる神の証言のおかげで、私たち自身も私たちの傷と共に神の記憶の中に生きているのです。神はキリストの人間性をとおして私たちの人間性を思い出します。それこそキリストの喜び、受肉の喜びなのです。私たちも神を思い出さねばなりません:「神は私たちと共にいます。」

 

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