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   第十四回 パウロ  異邦人の使徒

■ 名前…パウロはヘブライ名をサウロといい、これはイスラエルの初代王サウルの名である(サムエル記上9章)。ダマスコ途上のサウロに、イエスは「サウル、サウル」と呼びかけている(使徒言行録9章4節)。使徒言行録では13章9節以降、ラテン名パウロが用いられる。パウロは回心後に名前を変えたのではなく、ユダヤ人社会でもちいるヘブライ名とギリシア・ローマ社会で用いるラテン名(ギリシア名)を両方もっていたと考えられている。サウロは「求められた者」、パウロは「小さい」の意である。

■ 生涯…パウロの手によるといわれる書簡とパウロの弟子であったルカによる使徒言行録から、パウロの生涯について知ることが出来る。それによると、パウロは「キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人」で、「ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け」た(使徒言行録7章)。またステファノの殺害にあたってはその場に立ち会っている(同7章58節〜8章1節、22章20節)。律法に忠実を尽くす立場からナザレのイエスをメシアとする者たちの迫害に熱心であったが、イエスとの出会いを経て「異邦人の使徒」(ローマの信徒への手紙11章13節)となる(使徒言行録9章1〜19節および平行箇所、ガラテヤ書1章11〜24節など)。宣教の旅を重ねた後、エルサレムで逮捕され、ローマに護送される。聖書にはパウロの死についての言及はないが、古い伝承によればネロ皇帝の時代にペトロと同じ頃か(64年?)わずかに遅れて(67年?)斬首により殉教したとされる。現在、ローマ郊外(Via Ostiensis)にある城壁外の聖パウロ大聖堂はパウロの墓の上に建てられているといわれ、近くの殉教地とともに巡礼者が絶えない。

■ 宣教活動…パウロはエルサレムではなくシリアのアンチオキアを宣教の基地として活動した。アンチオキアはローマ、アレクサンドリアに次ぐ帝国第三の都市である。パウロの宣教でまず問題となったのは、イエスをキリストと受け入れた異邦人(非ユダヤ教徒)に律法遵守の義務、特に割礼の必要があるかどうかという点であった。パウロ以前は、イエスを受け入れたのはユダヤ教徒であり、「旧約」の律法を守ることは問題とならなかったが、律法の伝統を持たない異邦人の場合は新しい対応を迫られたためである。エルサレムでの使徒会議の結果、律法の遵守によってではなく「主イエスの恵みによって救われる」ことが宣言され、割礼に代表される律法の遵守については問われないことになった(使徒言行録15章1〜29節)。

■ 第二回宣教旅行と呼ばれる旅では、パウロはギリシア南部の港湾都市コリントに1年6ヶ月滞在し(使徒18章11節)、ここで「テサロニケの信徒への第一の手紙」を書いたといわれる。この書簡は新約聖書中最初の文書である。また第三回宣教旅行と呼ばれる旅では、ローマ帝国アジア州の最重要都市であるエフェソに3年間滞在(使徒20章31節)している。エフェソではユダヤ人祭司長の7人息子の騒動や異邦人の騒動が起こっているが(使徒19章)、「エフェソの信徒への手紙」を読むにあたってはこれらの出来事を念頭におくことが出来る。

■ 晩年…1世紀にさかのぼる伝承によると、ローマに護送されたのち殉教までの数年間に、パウロはスペインに宣教旅行に出たという。「(あなたがたは)地の果てまでに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1章8節)という昇天のイエスのことばはこれを暗示するとか。

■ シンボル…パウロのイエスとの出会いの場面、すなわちダマスコ途上で落馬する姿はたびたび絵画のモチーフとなっている。立像の場合は剣をもつことが多い。斬首によって殉教したからである。福音宣教者・書簡の作者として書物あるいは巻物の聖書をもつ場合もある。斬首の際、首が三度転がって跳ね、そこから三つの泉が湧き出たという伝承から三つの泉が描かれることもある。