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  第一回 エジプト・神の民の解放の舞台

 聖書を信じる者にとって、エジプトからの解放は「神の民」を意識させる根本的な出来事である。創世記によれば、太祖アブラハムは飢饉を逃れて(12章10節以下)、ヨセフは兄弟に売られて(39章以下)またヤコブはヨセフの招きによって(46章以下)それぞれエジプトに下っている。世代を経て、彼らの子孫は虐げられる身分となり、エジプトの巨大な都市建設に携わることさえ余儀なくされた(出エジプト記1章11節)。民の叫びに応えて神はモーセを選ぶ。彼こそ神のことばを預かる預言者、救われる民の指導者である。聖書の民は以来いつもこの出来事に立ち帰ることで、神への希望と信頼を見出すのである。
■ 出エジプト記12章1節〜13章16節…神がモーセにエジプト脱出の段取りを指示し、どのように神が民を解放したか、出来事の中心部分が記されている。この個所はまた、後の時代にこの出来事を記念する意味を伝えている。実際、出エジプトの出来事は毎年春分のころ、過越祭とそれに続く一週間の除酵祭(種無しパンの祭り)として記念され(西暦2001年[ユダヤ暦5762年]は4月8〜14日)、また長子は神に属するものという考えを基礎付けた(ルカ2章22〜24節参照)。もともとは牧畜の祭りであった過越祭と農耕の祭りであった除酵祭は、「神の民の解放」という歴史的出来事と結びついて聖書を信じる民の記念祭となったのである。キリスト教徒にとって、過越祭に屠られる小羊はキリストの前表である。ユダヤ教で過越祭は「ペッサハ」Pessah、種なしパンは「マツァ」Matsahと呼ばれる。
■ 出エジプト記13章17節〜14章31節…水を分け、民を導くモーセの姿でよく知られたこの葦の海のしるしは、神の力による解放を再び印象付ける出来事である。キリスト教徒にとって、エジプトは世の悪の力を象徴し、民が水を通って救われたことは洗礼による罪からの解放を予表するものである。この出来事は民に「救う神」をはっきりと示し、またその神は「民が本当に生きることを望んでいる」と知らせる出来事となった。この聖書の個所は後代に編纂されているので、大まかに「主」を主語とする部分とそれ以外の部分に分けて読むこともできる。そうすることで、神の民の歴史の主人公が見える。
■ 出エジプト記15章1〜21節…解放された民の叙事詩。上記の個所を背景に、人を救うために民の歴史に介入してくる神を称える歌が生まれた。今日これを歌う者にとってエジプトは追憶ではなく、自らを束縛する悪の力としてとらえられる。こうして、歴史の民の解放は、神の力による自分自身の解放として現在、記念されるのである。
■ マタイ2章13〜15節、19〜23節…エジプトへ避難する聖家族。たびたび絵画のモチーフでもある。「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」(参照・ホセア11章1節:「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」)とは、エジプトから解放された民についての預言書の言葉を神の子イエスに適用したものである。イエスの生涯が神の民と直接かかわっていることを暗示して興味深い。現在、カイロ市内のコプト教会のひとつは、避難した聖家族の滞在を記念した聖堂となっている。

■ 付記…「イスラエル」とは旧約の太祖ヤコブの改名で、ここでは「ヤコブの子孫」(=神の民)の意となる。キリスト教徒にとっては「神の民」(=教会)の意でも読まれる。したがって、聖書時代のまた現代の国名との混同を避ける必要がある。